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十印五十年史・第四回「バブル崩壊」
2013/09/06
十印五十年史:第4回
時代という名のジェットコースターに乗って
ーバブル崩壊ー
「事業には夢とリスクが背中合わせで存在する」とは勝田の言葉だ。どんなに順風満帆な経営であっても喜びばかりで50年の長きに渡って事業を継続すること は不可能である。十印とてそれは例外ではなく、この半世紀の間には幾多の苦しみ、それも時には大きな苦しみを乗り越えてきた。
80年代から90年代にかけて同社が通り抜けた道のりを振り返ると、冒頭の勝田の言葉に重みを感じる。十印に限ったことではない。あの時日本全体が追っていた大きな夢の背後には、大きなリスクがぴたりと背中を合わせて潜んでいた。
前号で紹介した言語研究所の試みはまさに翻訳業界の夢を追う一大事業であった。結果だけを見れば機械翻訳の夜明けはまだ先のことであったが、Muプロジェ クトと呼ばれた国家主導の研究開発や、その他大手メーカーとの協同の中で言語のプロとして十印が果たした役割は大きく、当時の成果は今日市販されている翻 訳ソフトにも連綿と受け継がれている。
十印がこのような大きな夢を追うことができたのにはいくつかの理由がある。
第一に、それまでの高度経済成長期に翻訳業界のパイオニアとしての地位を築きあげたことが大きいだろう。国内で力をつけた大手メーカーの海外進出に合わせ て翻訳や派遣のビジネスを展開することで、着実に資本と人財を蓄積した。Muプロジェクトのような産学官横断の事業に参加することができたのも、自他共に 認める言語のスペシャリストという肩書きを持っていたからこそである。
しかしそれだけではない。十印の中核ともいえる経営戦略も大きく関わっている。それは創業者の勝田、また現社長の渡邊の二人ともが折に触れて強調する言葉であるが「お客様のニーズにぴったしくっついていく」ということだ。
例えば言語研究所は最盛期に70人もの人員を抱えていたが、十印の力だけではこのような規模を研究開発に投入することは難しかったはずだ。それを可能にし たのは機械翻訳を実用化させたいと考えた大手メーカーのニーズである。いくらニーズがあるとはいえ、「言語処理に秀でた者を70人用意してくれ」と急に言 われたところで簡単なことではない。だが「仕事が入れば人は集まる」というのが創業以来一貫する勝田のスタイルだった。自分たちの得意とするサービスを売 り込むのではなく、顧客のニーズに応えてサービスを提供するのだという勝田のこだわりは十印のDNAに深く刻まれている。
1980年代の終わり 頃から十印はSBU(ストラテジック・ビジネス・ユニット)というビジネスモデルを導入した。これは当時の重要顧客別に8つのビジネスユニットを編成し、 営業から製作までを一つのチームが一つの顧客と向き合って行うという体制であった。「お客様にぴったし寄りそう」という同社のテーマをそのままカタチにし たようなこの経営戦略の下、顧客からの信頼はより厚いものとなっていく。
こ のようにして軸足はドキュメンテーションサービスとマニュアル製作に置きながらも、十印はその他に一見するとその専門分野とは関連の低い事業にも乗り出し た。ドルショックやオイルショックを経験した日本では多角経営という言葉が流行していた。経営の安定やリスクの分散を目的としたこの事業戦略は好奇心旺盛 な勝田の生来の気質にマッチしたのだろう。
二度目のオイルショックの最中、十印は入手が困難になった石油の代わりに塩水で自動車を走らせるという 新しいテクノロジーに関わることになる。今でこそ電気自動車は当たり前であるが、塩水を使って発電し電気で動く自動車は斬新なアイディアであった。特許申 請中の発明家に協力して晴海でショーも行ったが、実用化にはいろいろな問題があり、断念した。当時の活気あふれる日本経済を懐かしむように勝田は笑い、 「90年くらいまでは本当にいろいろやりましたよ」と続ける。そう、時代はバブルに突入していたのだ。地価に天井などないかのように銀行は値上がり確実と 触れまわって土地の購入を勧めていた時代である。勝田も多角経営の一環としていくつかの不動産を購入していた。
「その資産価値が見事に十分の一まで落ちたんですから。もう大変ですよ」。バブルの終焉が引き起こした荒波は日本経済を根底から揺るがし、十印も否応なく飲み込まれた。
十 印で働いていた従業員にとって、バブルの崩壊は引っ越しという形で現前した。それまで十印の本社はインテリジェント・ビルと呼ばれたその時代の最先端を行 く目黒のビルに置かれていた。ロビーには巨大な絵画が飾られ、IDカードを使って入退室する目新しい設備を誇っていたそのビルも、後から見ればバブル経済 の勢いに後押しされてのものであった。より手狭な自社ビルへの退去を余儀なくされ、涙を呑んでの人員削減が行われた。日本全土で見られた光景である。
続 いて仕事の質に変化が生じた。SBU体制の下で十印の主軸商品であったマニュアル製作の仕事が激減したのだ。体力の落ちた国内メーカーは可能な限り業務の 内製化を図り、マニュアル製作の仕事はそれぞれ社内、もしくはその子会社に託すようになる。十印に入る仕事は下請け的な性質が強くなっていった。
多角経営の一環として御茶ノ水の自社ビル1 階
で喫茶店を経営していた
で喫茶店を経営していた
「あ れから何年間は社内外の様子が慌ただしく変化する毎日で、ジェットコースターに乗っているようでした」と当時の社員は語る。なんとか持ちこたえることがで きたのは「長くおつきあいのあった一流企業の皆様から継続的にお仕事をもらえていたことが大きい」と勝田は言う。十印にとっては苦しい時期が続いた。売上 は半分以下に落ち、不動産の価格下落による借入金の返済には、全不動産・子会社の売却、その他あらゆる手法を使わざるを得なかった。90年代半ばを過ぎて 少しずつ復調の兆しが見えてきた。
十印の強みは「その時代によって柔軟に主力商品を変えながらお客様にアピールしてきたことなんです」と同社に長 く籍を置く社員は強調する。もしも十印が依然としてマニュアル製作業務にこだわって事業の存続を図っていたら、低迷期は長くなっていたかもしれない。 Windows95の発売、DTPの本格的な普及、そしてインターネットの登場により、新しい時代の到来が予感されていた。十印の流儀に即して言えば、 「お客様のニーズに変化が生じていた」となるだろう。
十 印に活力を与えたのはローカリゼーションという新しい事業であった。自国で好まれるコンテンツを海外に輸出する際、輸出先の文化・言語圏の好みに即した変 換作業がその製品の売れ行きを大きく左右する。自然な言語に翻訳することはもちろん、使われている画像や表現はその文化圏に適切であるか、また細かい点で は測定単位や時刻の表示形式、文字セットから用紙サイズまで、配慮すべき点は実に多岐に渡る。当初は各社とも内製でまかなおうとしたが、IT業界の成長、 特にソフトウェア企業の海外進出に伴い、この変換作業を専門とする会社が現れ、瞬く間にローカリゼーションと呼ばれる業界を作るまでに発展した。
十 印がこの波に乗るのは早かった。元より言語のエキスパートであると同時に国内大手企業の海外展開を長い間支えてきたノウハウが蓄積されていたことを考えれ ば当然の成り行きだったとも言える。時代に変化が生じていたとはいえバブル崩壊の清算が済んだというにはまだ尚早であったこの時期に、十印は自身の肩書き を「マニュアルの十印」から「ローカリゼーションの十印」へと改めていくことになる。
そしてインターネットの普及はもう一つ、日本の翻訳業界のパイオニア企業に大きな可能性をもたらした。すなわち本格的な海外進出である。苦しみの時期を乗り越えた同社は新しい夢である「アジアの十印」という地位を目指し、邁進していく。
続く