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十印五十年史連載 最終回 「海外展開 次の五十年へ向けて」
十印五十年史連載 最終回海外展開 次の五十年へ向けて こ れまで四回に渡って株式会社十印の五十年の歩みをお送りしてきたが、同社の歴史を語ることは日本の翻訳業界史を振り返ることに等しい。他社に先駆けてこの 業界の道を切り拓いてきた同社の現在、そして今後の取り組みを探ることは、日本の翻訳業界全体の一つの指針となりうるだろう。現在のトップは2005年に代表取締役社長に就任した渡邊麻呂である。創業から半世紀を迎えた十印が新体制の下で掲げる目標は、「日本の十印」から「アジアの十印」ひいては「世界の十印」へと成長することである。同社の海外展開の試みは四半世紀前の1987年に遡る。国内に目標とすべきライバル企業もいない中で、まさに試行錯誤の取り組みであった。最 初の海外拠点はアメリカ、ニューヨークに置かれた。日本の得意先大手企業の海外進出に伴い、その言語面でのサポートが業務の中心であった。「当時は大企業 といっ...
十印五十年史・第四回「バブル崩壊」
十印五十年史:第4回時代という名のジェットコースターに乗ってーバブル崩壊ー 「事業には夢とリスクが背中合わせで存在する」とは勝田の言葉だ。どんなに順風満帆な経営であっても喜びばかりで50年の長きに渡って事業を継続すること は不可能である。十印とてそれは例外ではなく、この半世紀の間には幾多の苦しみ、それも時には大きな苦しみを乗り越えてきた。80年代から90年代にかけて同社が通り抜けた道のりを振り返ると、冒頭の勝田の言葉に重みを感じる。十印に限ったことではない。あの時日本全体が追っていた大きな夢の背後には、大きなリスクがぴたりと背中を合わせて潜んでいた。 前号で紹介した言語研究所の試みはまさに翻訳業界の夢を追う一大事業であった。結果だけを見れば機械翻訳の夜明けはまだ先のことであったが、Muプロジェ クトと呼ばれた国家主導の研究開発や、その他大手メーカーとの協同の中で言語のプロとして十印が果た...
十印五十年史・第三回「機械翻訳への取り組み」
十印五十年史・第3回 ―機械翻訳への取り組み― 翻訳会社のパイオニアとしての使命 高度経済成長の盛り上がりが終息を迎えるまでに、その波に乗って業界のリーディングカンパニーとして成長を続けた十印は、柔軟に事業を展開することで石油ショックや円高ショックといった政治経済のあおりも乗り越えることができた。1981年に設立した日本翻訳連盟の初代会長でもある勝田が率いる同社は、同業他社を圧倒する経験と豊かな人材を誇り、そのノウハウは他の業界からも注目されることになる。そんな折に思わぬところからある先進的な事業への参加を要請された。Muプロジェクトと名づけられた、機械翻訳の研究プロジェクトである。1983年9月JTF理事によるルクセンブルグの機械翻訳視察 同 プロジェクトは、科学技術庁(現・文部科学省)主導の下1982年に発足し1985年まで続いた。機械翻訳の可能性がまだ夢見がちに語られていた時代にお いて、...
JTF回顧録(後編)松下巌
平成初期における「日本翻訳ジャーナル」と日本翻訳連盟にかかわる翻訳業界の状況 4. 日本翻訳連盟にかかわる翻訳業界の状況 4.1 概要 平成初期の日本翻訳連盟では、内外の翻訳関連団体との連携、パソコン通信の利用、機械翻訳の動向が関心事だったと思います。 4.2 翻訳関連団体との連携 翻訳事業者の団体として発足した日本翻訳連盟は、会員の範囲を法人会員と個人会員に拡大したことで、業界での地位も高まってきました。その結果、他の翻訳関連団体と連携して、お互いの長所を生かしながら活動することが重要だと考えられるようになりました。相互に会員となっている日本工業英語協会は、1990年(平成2年)11月5日創立10周年を迎えましたが、連携に特別な変化はないため、詳細は省略します。日本機械翻訳協会については、4.4項に記載します。●国際翻訳家連盟(FIT) 日本翻訳連盟は、1990年8月ベオグラードで開催された第...
十印五十年史・第二回「高度経済成長期」
十印五十年史・連載第2回『高度経済成長期』 日本経済は高度成長期へ。時代の追い風を受けた十印も急成長をはじめる... 取材執筆:日本翻訳ジャーナル、取材協力:株式会社十印 新 橋タイプセンターはその創業の翌年にあたる1964年、東京オリンピックの開幕を三ヶ月後に控えた7月に「株式会社十印」と社名を改めて法人に改組し、同 じ新橋のオフィスに移転した。その後手狭になるたび移転を繰り返し、1972年、創業9年目には浜松町に小さな自社ビルを新築した。2年後の1974年にはお茶の水駅直近に5階建ての事業用ビルを購入して翻訳部事業の一部を移したが、それでも浜松町の自社ビルはすぐ手狭になり、1976年港区芝にある第2芝興ビルを借りて移転して15年間本社をそこに置く事となった。急成長である。昭和40年代、十印は平均約40%もの売り上げ増しを記録し続けていた。この目を見張る飛躍的な発展に最も驚いていたのは創業者...
JTF回顧録(前編)松下巌
平成初期における「日本翻訳ジャーナル」と日本翻訳連盟にかかわる翻訳業界の状況 松下 巌(第三代JTFジャーナル編集長) 1. はじめに 「日本翻訳ジャーナル」の編集人を務めたのは平成2年から平成6年にかけてでしたので、「平成初期」というタイトルにしました。ここでは、その頃のジャーナルおよび連盟、連盟にかかわる翻訳業界の状況を紹介します。2. 日本翻訳連盟と「日本翻訳ジャーナル」の歴史 日本翻訳連盟は、任意団体として発足しましたが、1990年(平成2年)9月に社団法人となりました。設立時期と会長を示しておきます。 ・1981年(昭和56年)4月 日本翻訳連盟設立 会長に川口寅之輔氏が就任 ・1987年(昭和62年)6月 川口寅之輔会長が勇退 ・1988年(昭和63年)5月 勝田美保子氏が会長に就任 ・1990年(平成2年)9月 社団法人日本翻訳連盟を設立 会長に勝田美保子氏が就任 (任意団体の日本翻訳連盟は...
十印五十年史・第一回「十印創業」
それは1台の中古タイプライターからはじまった… 十印創業 十印の創業者、勝田美保子が昔読んだ本に、歯を一本抜いた後の虚無感からふと出家を思い立った男の話があった。倉田百三の作である。この話は勝田に強い印象を残し、彼女が十印の五十年の歴史を遡って創業期の話をする際には、たびたび引き合いに出される。 ほんの些細なことが人の運命を変えてしまうことがあるのだという。 1927年に東京都文京区で生を受けた勝田が、十印の前身である「新橋タイプセンター」を立ち上げたのは35歳の頃。東京オリンピックの一年前、池田勇人 内閣の所得倍増計画策定から三年後にあたる、1963年のことだ。「あの頃は日本全体がどんどん発展していく予感にあふれ、活気と熱気が充満していた」と 勝田は当時を思い返す。 1959(昭和34)年の新橋駅西口広場 時代をさらに遡って1948年、勝田は日本女子専門学校(現・昭和女子大学...
JTFアーカイブの短期連載にあたって
JTFアーカイブの短期連載にあたって 日本翻訳ジャーナル編集長 河野弘毅 『日本翻訳ジャーナル』の前身にあたる『日本翻訳連盟会報』の第1号は1982年4月15日に発行されました。この創刊号はジャーナル編集部にも残されておらず、ながらく「まぼろしの創刊号」となっていましたが、ジャーナル編集長を以前お務めになった松下巌さんが一部お持ちであることがこのほどわかり、復刻してご紹介できることになりました(松下巌さんのご協力に感謝します)。 記事の内容はぜひご覧頂きたいと思いますが、1982年の時点ですでに、日本経済に関するやや悲観的な見通しと、悲観論を克服していくうえで翻訳業界が果たすべき役割が論じられている様子は、その後の日本経済がたどったバブルへの歩みとその崩壊を知っている現代人の私たちからみてもなかなか興味深いと思います。各委員会の活動報告については、現在の活動状況と比較して改善された点・...
東日本大震災・在宅翻訳者の復興支援
在宅翻訳者の復興支援 寺田美穂子英日/日英 フリー翻訳者。分野は、工作機械、電気・電子機器、情報処理、エネルギー等。訳書数冊。椙山女学園大学/Eastern Michigan University 卒業。 2011 年3月11日2時46分。私は、いつも通り、仙台の自宅で仕事をしていました。30分前にクライアントさんと次の仕事のお電話をして。コーヒーを入れ直し てパソコンに向かい仕事を再開。午前中は休憩やネット逃避が多いのですが、この時間帯になってくるとお尻に火が点いて集中力も高まってきます。ちょうどそ んなときでした。 我が家は山沿いなので、結局、自宅マンションは半壊になったものの津波の被害もなく家族全員無事でした。電気が戻るの に4日、水が2週間、ガスは2ヶ月弱。水が無いので降った雪を運んで使おうとしたり、雪の降り続く中3-4時間並んだり。そういう生活を2週間送った後、 名古屋の私の実家に2ヶ月疎開しま...