訳せる人を増やす●岸本晃治

2013/09/06

訳せる人を増やす



 

岸本 晃治(きしもと こうじ)


広島出身。国立呉工業高等専門学校専電気工学科在学中に英語に目覚め、同校初、進路に留学を選ぶ。米国シアトルのワシントン大学経済学部を卒業後、1998年に株式会社大興アビリティセンター(現在は株式会社アビリティ・インタービジネス・ソリューションズ:AIBS)入社。主にIT系の翻訳者、チェッカー、コーディネーターをしながら、現在は翻訳部門のとりまとめやAIBS翻訳スクールの企画・運営にも携わる。
 


翻訳会社に就職して今年で16年目になります。プロ野球選手の平均在籍年数は9年らしいので、プロ野球選手であればベテランと呼ばれる世代ですが、翻訳業界ではまだまだひよっ子です。しかも、ずっと翻訳をしていた訳ではありません。翻訳していた時間は入社後の数年間が最も長かったですが、ほかにチェックや コーディネートもしていたので、最も多く翻訳した年でも年間20万ワードぐらいです。その後、徐々にメイン業務が非生産業務にシフトしていき、直近5年間で翻訳したのはたったの25万ワード。15年間での累積翻訳ワード数は、多く見積もっても150万ワードぐらいでしょうか。150万ワードなんてフルタイムのフリーランス翻訳者さんであれば2、3年分ですので、やっぱりひよっ子です。

ですが、このたかだか150万ワードが今の自分を支えてくれています。もちろんその何倍もの量をチェックした経験も役立っていますが、翻訳の経験は特別です。何が特別かと言うと、そのほとんどでフィードバックをもらえたことです。新人時代は地獄絵図のような赤入れでへこまされ、お客さまからたまにもらえるお褒めの言葉に励まされ、新入社員からの斬新なフィードバックで新たな発見をし、そのすべてが自分の血となり肉となりました。

さて、この記事のタイトルの「訳せる人を増やす」は、サイコロ給などで有名な面白法人カヤックの経営理念「つくる人を増やす」をパクッ、もといリスペクトして書いた言葉です。

今は、翻訳会社が社内で翻訳者を育てない時代になりました。育成にコストがかかり固定費増大のリスクがある翻訳者を抱えなくても、翻訳会社は成り立つからです。でも、私は訳せる人を自分たちで増やしたい。なぜかって、最もコアな部分を全部外部頼みなのは変だと思うし、自分たちが翻訳のことを知らなければ他人にもきちんと頼めないと思うからです。

訳すことは世界の誰かと誰かを近づけること。こんなに素敵な仕事に関わっているのに、納期とコストのことだけを考えながら仕事をするのはもったいない。会社だから全員翻訳者という訳にはいきませんが、訳すことの難しさや喜びは全員が知っている組織にしたいです。

世の中には、本当は翻訳した方が良いのに実際に翻訳されているのはそれらの1%しかないと言われています。残りの99%をビジネスに変えるために、機械にできることは機械に任せて、貴重な人間の頭脳はもっと高度な翻訳に回そうというのが機械翻訳の考えですが、人間の翻訳が機械と大して変わらなければ、機械の進化を横目でチラチラ見て見ぬ振りをして怯えながら生きていかなければならなくなります。どんなに技術が進歩しても機械を圧倒する文章力を持つ翻訳者を増やして翻訳の価値を上げる、それが翻訳会社としての使命だと思っています。

翻訳会社は翻訳者にとって恵まれた環境です。まずチェッカーやお客様からのフィードバックが得られやすい。すべての翻訳のフィードバックをもらえるわけではないですが、フィードバックをもらえなくても、チェック後のファイルを勝手に確認できます。またいろんな人の良い訳文、悪い訳文を大量に見る機会があり、様々な分野の翻訳を経験することで、知識や表現の幅を広げられます。 翻訳の前後のプロセスを把握できるのも重要です。

翻訳会社では専門知識が身につかないという意見もありますが、バラエティに富んだ人材が意外に多い業界です。実際私たちの社内にも、前職がIT、機械、自動車系などさまざまな職歴を持つ人がいて、わからないことがあれば誰かに聞けば教えてもらえます。また、お客さまに技術講習をしていただくこともあります。

それでもプロの翻訳者を育てるのは本当に難しいです。翻訳会社の社員はみんな文章力が高いですが、良い文章が書けるようになるにはインプットとアウトプットの積み重ねが必要です。そのため、経験が少ない若手社員の育成には時間がかかりま す。ただ若い力は、先輩社員にプラスの刺激と変化をもたらしてくれます。翻訳は面白い仕事ですが、地味で孤独で単調です。長くやっていればダレることもあります。そんなとき、やる気あふれる若手社員の姿は仕事を始めた頃の気持ちを思い出させてくれ、彼らからの憧れのまなざしに応えようと必死になります。若手に自分の翻訳をチェックさせるときは、いつも以上に気合いが入り、育てるつもりが、成長できたのは自分だったことも少なくありません。

訳せる人を増やしたいのは社内だけではありません。社外の場合はすでにプロなので増やしたいというのは変ですが、共に成長できる翻訳者さんを増やしたいです。どんなに優秀な翻訳者さんでも、コミュニケーションが不足すれば良い仕事はできません。特にフィードバックは、良い関係が築けていなければ逆効果になることもあります。関係を深めるには会うのが一番なので、いつかはマツダスタジアムのパーティフロアを貸し切ってパートナー翻訳者さん全員を呼びたいのですが、すぐには無理そうです…。それまでは、どんな方か勝手に妄想しながら仕事をしたいと思います。改めて考えると、顔も見たことがない人と何十万、何百万という 取り引きをするのですから、凄い世界です。

ダラダラと書いてきましたが、日本でどれだけ英語が普及しようが、まだ当分は翻訳の仕事はなくならないでしょう。逆に英語ができる人が増えている時代だからこそ、翻訳者にはアマチュアとは違う力が求められます。

「やっぱりプロは違うね」
この言葉が聞きたくて、これからも訳せる人を増やします。
 
 

コラムオーナー

矢野 直子
(やの なおこ)
PFU ソフトウェア(株)のドキュメント制作部門に所属。テクニカルライタを経て現在は社内翻訳者兼チェッカー。IT系ドキュメントの英日翻訳と、機械翻訳の活用に関する調査を担当。「ほんやく互学会」メンバー。石川県在住。

■PFUソフトウェア(株)
ソフトウェア開発/マニュアル制作/
翻訳 (ローカライズ)
http://www.pfu.fujitsu.com/psw/



 

MISSION STATEMENT

「翻訳会社の社員」とひとくちに言っても、翻訳から編集、チェックまで一人何役もこなす人もいれば、翻訳者としてスタートし、チェッカーを経て現在はコーディネーターという人もいます。あるいは、はじめからコーディネーターやプロジェクトマネージャとして採用された人も。「フリーランス」ではない「翻訳会社勤務の人々」のキャリア、ワークスタイルはどのようなものなのでしょう。また彼らが、それぞれのキャリアを経て辿り着いた現在の立ち位置からは、どんな景色が見えているのでしょうか。このコーナーでは、翻訳会社の社員の方に、これまでのキャリアを経て今みえてきた何か、リアルな日常、等々、「等身大の自分」を通して様々な本音の部分を自由に語っていただけるとよいな、と思っています。