知らなければ世界から取り残される「翻訳の国際常識」

2013/09/06

ISO17100の衝撃

知らなければ世界から取り残される『翻訳の国際常識』

 

 

「翻訳は工業製品とは異なり、そもそも規格にはなじまないもの」―
翻訳業界で働く多くの人にとっては、そんな感覚が一般的ではないだろうか?しかし、翻訳に関するその「常識」を過去のものにしてしまうかもしれない「翻訳の国際規格」が、来年にも発行されようとしている…
この特集では、日本の翻訳業界を代表する形で昨年度からISOの専門委員会(TC37)に参加している㈱翻訳センターの田嶌奈々さんと市村美樹子さんに、ISOで検討されている翻訳の国際規格の最新状況を紹介していただいた。ISOの新規格は、世界の翻訳業界の業務フローや単価にも影響を与える可能性を秘めている。もちろん、日本だけが例外ではありえない。

この特集では、前半でISO17100のベースとなっている「国際ガイダンス」TS11669について市村さんの記事で紹介した後、後半のインタビューでISO17100について解説します



執筆:市村 美樹子(いちむら・みきこ)
株式会社翻訳センター 品質管理推進部
スーパーバイザー



I.    2014年、翻訳に関する国際規格が誕生する?!

国際規格と言えばISO9000シリーズや14001が有名ですが、実は翻訳に特化したISO規格というものがあり、早ければ2014年に発行されるかも知れないことをご存知ですか。この規格は17100 Translation services – Service requirementsというタイトルの認証規格(審査を受ける必要のある規格)で、2013年夏現在、完成間近の段階にきています。11月には内容がほぼ確定すると予想されますが、現段階の規格案(英文)は日本規格協会から購入することができます。
17100は突然できたわけでも、ゼロから作成したわけでもなく、翻訳の国際ガイダンスをベースに作成されました。翻訳の国際ガイダンスって何?と思った方が多いかと思います。そうなんです、業界でも話題にならないうちに翻訳の国際ガイダンスというものがひっそりと発行されていたのです。
ひっそりと発行されていたとはいえ、17100の発行に先駆け、国際的に合意・発行された翻訳の国際ガイダンスとはいったいどんな内容だろうととても興味がありました。同時に、知らないとどんどん世界から取り残されてしまうのではないかと不安に感じました。そこで、この場を借りて多くの方々にもこの国際ガイダンスについて知っていただければと思います。(17100についてはジャーナルのウェブサイトに掲載されたインタビュー記事をご参照ください。)

II.  秘かに誕生していた国際ガイダンス

ISO/TS 11669 Translation projects – General guidanceは欧米諸国の専門家を中心に起案・作成され、2012年5月正式にISO国際ガイダンスとして発行されました。こちらも日本規格協会から購入可能です(邦訳なし)。
このガイダンスは、翻訳プロジェクトに関わるすべての人が、翻訳サービスに対して共通認識を持てるように作成されたもので、どのような工程で進められるべきか、どういう点に注意すべきかといった翻訳プロジェクトにおけるベストプラクティスが具体的に書かれています。秘かに誕生していたとはいえ、専門家が議論を重ね国際的に合意が取れたガイダンスは、翻訳サービスに関わる人たちの国際常識となっていく可能性があります。

III.   国際ガイダンスの内容

TS 11669は第1章から第7章まで全35ページで構成されています。フリーランス翻訳者とはどういうものか、翻訳サービスプロバイダーを選ぶときはどういうポイントがあるか等、言葉の定義から丁寧に説明されています。ガイダンスの詳細な内容は原文を購入いただいてご確認いただきたいところですが、ほんの少しだけご紹介します。

A.    Native言語って

「Native言語」、「母国語」は重要なキーワードですが、その定義は各国同じなのでしょうか。
ガイドラインではA-language、B-language、C-languageという言葉の定義があります。
 
A-language native language, or language that is equivalent to a native language
B-language language other than a translator’s native language
language of which the translator has an excellent command
C-language language of which a translator has a complete understanding
 
 
母国語はほとんどの場合A-languageに該当しますが、例外もあります。例えば、韓国系アメリカ人で米国に住んでいて、家庭では韓国語、学校や住んでいるコミュニティーでは英語で育ったという場合、その人のA-languageは英語の可能性があります。AかBかはその人の言語習得度によるということです。
このA、B、C-languageはさらに翻訳の言語方向にも関係します。ガイダンスによると推奨される言語方向は、①B⇒A、②C⇒A、③A⇒Bとされています。これを日本の翻訳業界に当てはめてみると、多くの日英翻訳は日本語ネイティブの日本人によって翻訳されていますので、A⇒Bということになります。つまり、日本語ネイティブの日本人による日英翻訳はもっとも推奨される言語ペアではないということです。不安になる英訳者の方もいらっしゃるかと思いますが、あくまでガイダンスですので今すぐ何か影響があるわけではないと思います。ただ、翻訳の国際常識として、BまたはCからA-languageに翻訳する、ターゲット言語のネイティブが翻訳することがもっとも良いとされていることは把握しておいた方がいいかも知れません。

B.    イメージはFBIの潜入捜査

映画や海外ドラマでよくあるFBIの潜入捜査ってすごいですよね。あたかもその組織に属しているかのように、時には自分の性格まで変えて捜査を実施する。潜入捜査は英語でcovert operationというらしいのですが、ガイダンスにもcovert translationという定義があります。
 
covert translation type of translation intended to make the translation product appear as though it had been authored originally in the target language and target culture
 
 
要は、違う言語で書かれたものをあたかも元からその言語で書かれたもののように翻訳することです。これに対し、翻訳された訳文であることがわかるように翻訳することはovert translationといいます。どちらの方がいいということはありませんが、翻訳の使用用途に応じて依頼者側が依頼時に指定することが適切と定義されています。

C.    翻訳パラメーターという概念

ガイダンスの中でとても面白いと感じたもののひとつに、翻訳パラメーターがあります。翻訳パラメーターは、ひとことで言うと「案件の仕様を決めるひとつひとつの要素」です。ソース言語は何か、ターゲット言語は何か、原文は誰を対象に書かれたものか、何の目的に書かれたものか、どの母国語の人が書いたものか、ボリュームはどのくらいか、といった細かい要素が21個定義されています。ここにovert、covertのどちらかを指定するといった内容も含まれます。これらひとつひとつの要素をお客様と確認することで、プロジェクト仕様が明確に定まり、納品・検収までこのプロジェクト仕様に従って進めることが品質に大きな影響を与えるということです。
案件ごとに21個の要素をすべて確認するのは大変な作業ですが、なるほどと思う要素もあり、後でトラブルになるよりは先に確認してお客様にも安心していただこうと思える内容になっています。驚いたことに、ガイダンスではこれらの要素を明確にした「プロジェクト仕様書」の作成はまずお客様がすべきだと記載されているのですよ!

IV. 翻訳業界に与える影響

TS11669はガイダンスという位置づけのため、その内容はすべて「推奨」レベルになっています。つまりこのプロセスで、このようなリソースで、このような点に留意すると翻訳の品質は向上しますよ、と教えてくれているわけです。これは翻訳業界にとってプラスであると言えます。例えば、お客様にこのガイダンスが浸透することで、これまで理解されにくかった翻訳の工程が明確になり、依頼する側の意識も変わると思います。翻訳パラメーターに関する問い合わせも品質をあげるためなら、とご理解いただけるかも知れません。または複雑な案件の納期交渉も可能になるかも知れません。
ここでは詳しく取り上げなかった校正者についても、そのコンピタンスは翻訳者と同等以上の能力があることが望ましいと定義されており、校正者の地位向上につながる可能性があります。翻訳者と同等の翻訳力・専門性を有し、翻訳者よりも経験の豊富な校正者を確保することは、現実的にはどの国でも難しいようですが、理想論として訳文を修正する校正者は、その訳者以上の能力があるべきだということのようです。今後、校正者の地位、校正作業の対価が向上し、有能な校正者が増えれば業界全体の品質の底上げにもつながります。
繰り返しになりますがTS11669はガイダンスであるため、必ずこうしなさい、こうでなければならない、といった強制力はありません。ただ気を付けておきたいのは、これをベースにした認証規格(17100)が早ければ来年発行される予定であること、17100には準拠することが求められる要求事項があることです。
ここでご紹介できたのはほんの一部ですが、まずは世界から取り残されないように、翻訳のベストプラクティス、国際常識を把握しておくことが重要だと思います。